選抜でなく、出場を勝ち取る予選でプレーヤーファーストに」
春の高校野球の出場校が選抜された。テレビや新聞で喜ぶ生徒達の姿が報道される一方、選抜されなかった生徒達の落胆ぶりは今年も報道されなかった。スポーツの大会なのに、勝敗でなくなぜ選抜なのか、高校部活動の現場にいる者には理由がよくわからない。
主催する毎日新聞社の記事に各地区の選考過程が載っている。近畿地区6校目は準々決勝で龍谷大平安を終盤までリードした市和歌山が、智辯和歌山を相手に序盤に大量失点した大坂桐蔭よりも試合内容で上回るとされた、とある。
選考は、日本高等学校野球連盟(以下、高野連)の出場校選考基準(以下、基準)に従っている。
基準に、「校風、品位、技能とも高校野球にふさわしいもので、各都道府県高野連から推薦された候補校の中から地域的な面も加味して選出する」とある。また、「本大会はあくまで予選をもたないことを特色とする。従って秋の地区大会は一つの参考資料であって本大会の予選ではない」とある。
基準による選考は、主催者である高野連と共催する毎日新聞社の両者によって選考された運営委員会が選出した選考委員会が行う。選考委員会が基準に基づいて厳正、公平な会議を開き、出場校を選出する、とある。
公平な会議、とあるが、スポーツにおける公平さとはルールに基づいた勝敗ではなかろうか。
古代ギリシャの遺産である民主主義は、オリンピックを基にして誕生したという。オリンピックの競争的な雰囲気はアスリートだけでなく、観衆の政治家や哲学者、貴族、詩人などにも影響を与えた。公に意見を戦わせる討論が文化として定着したという。オリンピックが始まってから約200年後、ルールに基づいた競争と公開討論の慣習は次第に、アテネの政府にも根付くようになったそうだ。このように、スポーツは社会をリードする役割を担っている、といえる。
今回の近畿地区では6位決定戦を行い、勝者が本大会出場権を勝ち取ればよい。競争による敗者は敗戦を学習の機会ととらえ、成長していく機会を得ることになる。公正な競争は参加者全員の技能を向上させる。選考委員会は21世紀枠を基準にしたがい選考する大切な役割を担えばいい。
昨今のスポーツ界の不祥事は、いずれもプレーヤーでなく、協会や連盟の権力が強すぎるために起こったのではなかろうか。この高野連の”選抜”は旧態依然の日本スポーツ界を象徴しているともいえよう。”選抜”という権力が強すぎるせいか、高校野球の現場からの改善を求める提案は困難を極め、議論すらおこらないのではないだろうか。
高野連・選考委員会ファーストでなく、プレーヤーファーストの高校野球界、スポーツ界を高校部活動の現場から提案したい。
コメントをお書きください