高野連の理不尽な権威 ”選抜” 某新聞社に投稿しましたが、今年もボツになりました。
春の高校野球の出場校が選抜された。テレビや新聞で喜ぶ生徒達の姿が報道される一方、選抜されなかった生徒達の落胆ぶりは今年も報道されなかった。スポーツの大会なのに、なぜ勝敗でなく選抜なのか、高校部活動の現場にいる者には理由がよくわからない。
主催する毎日新聞社の朝刊に各地区の選考過程が載っている。”東海地区の3校目は4強の加藤学園と藤枝明誠を比較。準決勝で県岐阜商と延長戦を演じた加藤学園、右腕・肥沼の安定感もあって上回るとされた。”とある。3位決定戦を行えばいいではないか。
選考方法を抜粋すると、”選考委員会が基準に基づいて厳正、公平な会議を開き、出場校を選出する”、とある。厳正、公平な会議、とあるが、スポーツにおける公平さとはルールに基づいた勝敗ではなかろうか。
古代ギリシャの遺産である民主主義は、オリンピックを基にして誕生したという。オリンピックの競争的な雰囲気はアスリートだけでなく、観衆の政治家や哲学者、貴族、詩人などにも影響を与えた。公に意見を戦わせる討論が文化として定着したという。オリンピックが始まってから約200年後、ルールに基づいた競争と公開討論の慣習は次第に、アテネの政府にも根付くようになったそうだ。このように、スポーツは社会をリードする役割を担っている、といえる。
競争による敗者は敗戦を学習の機会ととらえ、成長していく機会を得ることになる。公正な競争は参加者全員の技能を向上させる。選考委員会は21世紀枠を基準にしたがい選考する大切な役割を担えばいい。
一年前、甲子園大会に出場した野球部員が応援してくれた同じ高校のダンス同好会の有料発表会にユニホーム姿で出演したことが問題になった。日本高野連が「高校野球の商業的利用にあたる」として処分を一時、検討したためで、その硬直した姿勢に批判が集中した。
また、昨今のスポーツ界の不祥事は、いずれもプレーヤーでなく、協会や連盟の権力が強すぎるために起こったのではなかろうか。この高野連の”選抜”は旧態依然の日本スポーツ界を象徴している。”出場校の選抜”という権力が強すぎるせいか、高校野球の現場からの改善を求める提案は困難を極め、議論すらおこらないようである。
選考委員会ファーストでなく、プレーヤーファーストの高校野球界、スポーツ界を高校部活動の現場から提案したい。
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